helloworldからのtest01

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火事場の馬鹿力の換骨奪胎

火事場の馬鹿力。
物凄く強い力のようなイメージがある。
 
一般的に、ヒトが緊急時にリミッター解除したような姿が思い浮かぶと思う。

しかし、緊急時のリミッター解除・・・
本当に緊急時だからなのだろうか?
ここでは違うという前提で話を進めてみる。
 
まず、このことを考えるにあたって次の2つのパーソナリティを挙げる。
掃除ができる人

掃除ができない人
 
ここで突如として、どちらが知的か?という問いを投げかけてみる。
私なら、後者だと答えよう。
前者は息をするように掃除をしてしまう → あまり考えもせず
後者は掃除に対して思いを巡らす → 良くも悪くも頭はフル回転
というのが私の見方だから。
知力を使っているのは後者だと感じる。

次に、
前者と後者を 意識と肉体にわけて考えてみよう。
前者:掃除できる肉体/掃除できる意識
後者:掃除できる肉体/掃除できない意識
つまり、
精神がリミッターのような働きをしている。

そして、早くも次の結論を出す。
「 馬鹿(無思考)にならないと高レベルの力が出にくい 」
火事場の馬鹿力を制限しているのは
自分の意識とそれまでに学んだ常識。
緊急時には頭が使えない。
よってすごい力が出やすい。
→よって、火事場の馬鹿力を出すには、必ずしも緊急時である必要はない
(こじつけっぽい部分もありますが、云いたいことはこんな感じ)
 
これって、
自然の法則と人間が作った法則の違いに似ている気がする。
 
人網魚も漏らす
天網恢恢疎にして漏らさず
酷吏も天には及ばない
悪も馬鹿正直には及ばない

人の意識には完全なシステムが作りにくいが、
天、すなわち自然の法則には完全なシステムが作れる。
人の限界を超える時ってこんな感じだと思う。

ちょっと時間があるので美を超えてみよう

美。

耳当たりの良い言葉だ。

 

しかし、

絶対的な美。といってしまうとどうだろう。

現在の一般常識(私の中での)から考えれば

排他的なニュアンスが含まれる。

 

1つの美以外認めませんというように。

個人の相対的な美を、絶対的だと崇めるように強制されているような感じ。

 

絶対的、とつけたので極端になったが、

日常会話としての美という言葉には、実は裏の要素、

醜という言葉が隠れていないだろうか?

「これは美しい、あれは醜い(あるいはパッとしないとか)」

 

わかりやすく例えると、

ある女性を美女と賞賛すれば、その陰で落ち込む女性もいる、といった感じ。

 

一見肯定しているようで、

認識の外で何かを否定している。

そんなつもりはなくても当然だし仕方ない。

無意識レベルで思っている(時代に思わされている?)ことだから。

 

これが一種の境界的な美。

識別。つまり分離している状態。

特定の者以外と和を以ていない美。ちょっと過激に言えば差別的な美。

 

では、皆が和めるような美は存在するのか?

美を超えた美は存在するのか?

私は存在すると思う。

この宇宙の境界をすべて取り払って、

1つの芸術として見た場合。

それを体感したときに感じる美。

それが真の肯定的な美ではないだろうか。

(面白いことに、絶対的な美となってしまう)

 

そしてその本質を映し出すような芸術作品。

つまり、「宇宙の似姿としての芸術作品」を見たときの感動。

それが根源の美に近い感覚ではないだろうか。